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松葉園について

いちごから笑顔

STRAWBERRY SMILE

はじめに

この度は、数多くのショップの中から松葉園ホームページをご覧頂き、誠にありがとうございます。
私は、松葉園の大橋松太郎と申します。大橋家は明治27年から地元霊山町にて農業を営んでおりますが、時代の流れと共に
当時盛んだった養蚕から、様々な作物への転換を余儀なくされ、現在は父より継承した、いちごの栽培に日々没頭しています。

農業の継承

私の高校時代は就職氷河期と呼ばれ、バブル崩壊後、日本経済が最も低迷していた時代でした。
高校卒業を間近に控え、自分自身の進路に思い悩んでいた時に、母が私にこんな言葉を投げかけました。
「お父さんは松太郎と一緒にいちごを作りたいんだよ。」
元々、農家の長男に生まれ、いずれは農業をやらないといけないという気持ちはありましたが、母のこの言葉をきっかけに、福島県立農業短期大学校への進学を決意しました。
短大ではそこでしか出会えない多くの農家仲間と素晴らしい先生方に恵まれ、今でも情報交換をさせて頂いております。

また、短大卒業後は、いちごの一大産地である栃木県の三上光一氏の下で住み込み修行をさせて頂き、いちごの生理、特徴など、ひとつひとつを丁寧にご指導頂きました。
この修業時代に、三上氏に勧められ、ある一冊の本と出会います。その本の一節に「情熱を持って仕事をすれば、情熱を持っている人が必ずついてきてくれる。」という言葉がありました。この言葉こそが、私に夢を与え、私を突き動かす原動力となったのです。
私の夢は「美味しいいちごを生産し、食べた方に笑顔を届ける」こと。
美味しい物を食べたとき、人は必ず笑顔になります。驚きや感動が生まれます。私の使命は、そんないちごを生産することなのです。

震災前

私は21歳で就農し、栃木県の技術と父の技術を掛け合わせ、日々美味しいいちごについて考え、食べた方の笑顔を想像し栽培に取り組んで参りました。
就農して2~3年も過ぎると「ケンカするほど仲がいい」ということわざがあるように、父とは毎日いちごの事でケンカしたり、お互いに納得するまで話し合ったりしながら、美味しいいちごを追求してきました。
そこで、お客様に直接笑顔を届けるため、いちごの直売を始めることにしました。元々系統出荷だったため顧客ゼロからのスタートでしたが、看板を製作し販売を開始しました。

しかしスタートからわずか2か月後にあの東日本大震災が起きました。

東日本大震災と原発事故と会社設立

東日本大震災直後、東京電力福島原発の爆発事故が起き、福島県の作物は風評被害で苦しみました。
美味しいいちごを生産しても誰も食べない、買わない、笑顔なんて到底ない。放射能検査をして放射性物質が検出されなくても、娘の様に育てたいちごは捨てられる。この現実に私たちは泣いた。心の底から悔しかった。

そんな時、たまたま通りかかった浜通りからの避難者がトイレを借りにきました。(我が園はちょうど浜通りからの国道沿いで、避難者の通り道だったのです。)家族で着の身着のまま避難をしてきて、飲まず食わずだったことを聞き、母と妻がおにぎりの炊き出しと収穫してきたいちごを配りました。避難者はこれから福島市の体育館に避難すると言っていました。
それから3年後、避難者が我が園に訪れ、「あの時は本当にありがとうございました。」と涙ながらに感謝されました。

福島市の体育館に避難した際、そこには既に大勢の方が殺到していて、食べる物が何もない状態だったそうです。
一人一粒くらいしかいちごを食べられなかったけれど、みんな嬉しそうに食べてくれたこと、また、中には泣きながらいちごを食べていた方もいらしたという話を聞いて、私は素直に喜びを感じました。

「いちごから笑顔」
笑顔の中には、ひとりひとりのドラマがある。そのことをもう一度再認識しました。

起きてしまったことを変えることはできませんが、ピンチをチャンスに変えることはできます。
今だからこそ攻めの農業をしないといけない、そして、もっと多くの方に自分のできる「いちごから笑顔」を届けたい、という強い思いが、農園の規模を拡大し、会社を設立するまでに至りました。

結びに

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」や「我が辞書に不可能の文字はない」の言葉があるように
家族やスタッフを信じ、パッションを持って行動すれば必ずや道は開かれると信じ、
我が園では「いちごから笑顔」を届けるため、いちごに情熱と愛情を込めてスタッフ一同、日々生産に邁進していく所存であります。
想いのこもったいちごをぜひ一度ご賞味ください。自然と笑顔がこぼれます。